かげろう雑文祭参加作品


かげろうの天使



2003年の春、僕は夢に見た<かげろうの天使>を探しに街に出た。

ここ一週間ほど<かげろうの天使>は、ずっと僕の夢に現われ続けていた。
その夢のなかで、僕は古い校舎の中を執拗な何物かに追われて逃げ惑い、
やっと辿りついた小窓から飛び降りようとしていたのであった。身体が宙に
浮き、意識が遠ざかりそうになった時、僕の身体にとても優しい柔らかな感触
が触れた。それは今まで見たこともない、仄白い透明なふわふわとした羽の
生えた生き物で、いつのまにかひとり、又ひとりと僕の身体を信じられないほど
の優しい腕で支えてくれているのであった。僕はいつのまにか安全な場所に
降ろされ、薄物のような柔らかなベールに包まれていた。そして朝になり目が
覚めた時には、耳の奥に微かな呼び声のような余韻が残っていた。

こんな夢を続けざまに見て、なぜ、それが<かげろうの天使>という名前で
あるのかさえはっきり分からないのだが、ただ、いつも夢の中で僕を助けて
くれるかげろうのような存在を探しに行かなければ・・という思いだけが募り、
そして、とうとうある日、僕は高校時代を過ごした街に出かけていった。

東京に出て大学生活を過ごし、就職した先の都会の生活に疲れた僕が、
この中央アルプスの山々に囲まれ、眺めが美しい土地にほぼ自給自足の
暮らしを始めて早10年の歳月が流れていた。


久しぶりに出かけた街では、今まで見たこともないような妖しげな極彩色の
オーラをまとって闊歩している若者たちがなにやら街角のコンビニの前に
集まっていた。
僕は、若者たちのうちで一番話しかけやすそうに見えた色の白い目の大きな
少年の肩を叩いた。

「ねえ君、こう、薄くて透き通った羽を背中に持っている天使を知らない?」

彼は眠そうな目をこすりながら、「知らない。」とひとこと言って、又背中を
丸めて何かを一心によじって遊んでいた。

「何してるの?」

「これ、ヘンプのひもなんだ。さっき兄さんがくれたんだ。」

彼はそのひもを上手に結んで器用に手首に巻くと、それはブレスレットに
なった。

「これをつけていると、とても敏感になるんだって。」とあどけない顔で少し
得意そうに少年は笑った。

「それじゃあ、ちょっと探し人に付き合ってくれないかい?」と聞いてみると、
思いがけず、「いいよ。」と少年が言うので、気が変わらないうちに僕達は
歩き出した。

コンビニの前から大きな道をよぎって、山手のほうにどんどん歩いていくと、
住宅街の明りがポツポツと灯り始めていた。

少年はひとつ小さなくしゃみをしてぶるっと身震いをすると、

「ほんとに、そんな天使・・名前なんだった?・・・なんて本当にいるの?」
と僕に尋ねた。

「いるのかどうか・・それはわからない。でもとにかく探しに来たんだ。」

少年はふうんというような顔をして、しばらく手首に巻いたひもをいじって
無言でいたが、急にハッとしたように顔を上げると、

「もしかしたら、おととし父さんが入院したときに、そばに降りてきたふわっと
したものかな?靄のように白くってふわふわとしたものが父さんの側にいたん
だよ。でも、あれは何?って兄さんに聞こうとしたら、すぐに消えてしまったん
だけど。」
少年はそのときの光景を一生懸命思い出すように言った。

「きっと、そうだよ。君はちゃんと見たんだ。 ほら、年配の人たちが「お蔭さま
で・・」なんてよく言うだろ。あのお蔭さまというのは、かげろうの天使のこと
なんだよ。かげろうの天使は、生と死の狭間をつなごうとしているようなんだ。
かげろうの天使を見たときにはね、そこは別の空間になっているんだって。
僕は、それを自分の目で見るためにやってきたんだよ。」

少年は、今ひとつよくわからないという顔をしていたが、それでも瞼を瞬かせて、
「そうなの・・」と答えた。

その時、突然、救急車のサイレン音が荒々しく鳴り響き、僕達はその音のする
ほうを振り返った。そして僕達が立ち止まって話していたところの右隣の家から、
人の気配がして、年配の男性の姿が現われた。救急車はその家の前に慌しく
止まり、車から出てきた人々が担架を持って家の中に駆け込み、又、初老の
女性を乗せて現われた。その間、僕達はただじっと呆然と立ち尽くしていた 。

そして初老の女性が車の中へと運び込まれようとしたその時、少年が「あっ」と
小さく叫び、僕の腕を服ごと掴んで言った。

「見て、あそこに何かいるよ」

少年が指さした救急車の車体の上部を見た時、かげろうの天使はそこにいた。

救急車の上1m位のところに、半透明に輝きながら佇むその姿。

そこには、男性でもなく女性でもないような、ウスバカゲロウを思わせる儚さと、
白夜のような静けさが漂っていた。


そして、僕の夢の余韻と同じ儚い声が聞こえてきた。
「こんにちは・・」

まさか話し掛けられるとは思っていなかったので、僕と少年はビクっとした。
その美しい微かな声は、まるで心に直接語りかけられているようだった。
僕達は、凍りついた姿勢のまま、かげろうの天使の声を聞き続けた・・


ようこそ、わたしたちの国へ

今ここは、かげろうの国の入り口・・

ここでは、いったんすべてが溶けて

またもう一度、すべてが蘇るでしょう

わたしたちの歌は、その蘇りの歌

さあ、新しい生を、心のままに生きなさい

あなたの心の夢が、やさしく花ひらくままに・・・



いつのまにか、ひとりの天使だったのが、二人、三人と増えていたようで、
集まった天使たちは、救急車の頭上で音もなくふわふわと舞いながら、
身も心も溶けてしまいそうな優しいひそやかな歌を歌っていた。

そして急に、運ばれていた初老の女性が意識を取り戻したような声が
聞こえてきたが、車のドアがバタンと大きな音を立てて閉まり、来た時と
同じ速さでサイレンを鳴らして走り去った。


天使達は、人々と車を見送ると、僕と少年に向かって微かに微笑み、
目には見えない螺旋階段のようなものを登りながら、僕達にその半透明の
手を振ってくれていた。
僕と少年は、我を忘れて手を振り返した。
言葉には到底できない、愛しさと懐かしさで胸がいっぱいになり、涙が一筋
頬を伝って流れ落ちた。しばらくの間、僕と少年は天を仰いでいた。

かげろうの天使、その静かな微笑、僕は一生忘れないだろう。



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